夢二と神楽坂の深い関係

【ワンポイント夢二】
「東京・神楽坂に『夢二』という日本料理店がある。身体が復調したらでかけよう。」とSNSにアップしたのは昨年の12月14日。血栓症でまだいつ退院できるかわからない状態だった。この時に見つけたのが神楽坂にある「神楽坂 夢二」。皮肉なことに病院の窓から神楽坂の入口が見えました。「いつか行くぞ!」と誓いましたが、ようやく今年の1月18日に願いが叶いました。
ちょうど良い機会なので、神楽坂と夢二の関係を探ってみたら、なんと、夢二は神楽坂に通い詰めていたことがあったことが判りました。それは「見せられない日記」という妙な本に書かれている、半玉から一人前になったばかりの芸者きく子と夢二の愛の物語でした。
時は1914年(大正3)。実はこの頃、夢二は唯一結婚した「夢二式美人のモデル」とされる他万喜と険悪な関係にあり、神楽坂に憩いを求めていた頃。しかし、きく子はあまりに幼く純真だったこともあり、夢二のほうから、自分と一緒にいることで彼女が自立できないと感じ、あえて身を引いたという珍しいケースだったようです。夢二は多くの女性に恋をしましたが、ほとんどが降られるか親の介入があって成立していません。彦乃の場合などは、京都まで駆け落ちして命を縮め、23歳9か月で他界したともいわれています。自ら身を引いたのは唯一のケースかもしれませんね。

そういう点では、神楽坂は夢二の純真な心が見える重要な場所でもありました。当時、夢二は30歳。このような気持ちが夢二の心の底にあったということも、また夢二らしさを見出すヒントになります。

*写真:「神楽坂 夢二」店内(鈴木愛子・秋葉由美子(合同会社きよみず))

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夢二と台湾

大正時代を象徴する存在である竹久夢二。彼は画家のみならず、詩人等としても多くの作品を生み出し、恋と旅を重ねた生涯を送りました。死去する前年の1933年、夢二は2年余の米欧の旅から帰国後すぐ台湾に渡航し、台北で個展を開催しましたが、絵は売れず、帰国船に乗り遅れ、絵等も全て紛失するという不運に見舞われました。これは、この事象をもとに、波乱に満ちた夢二の生き方に関わって行く新たな試みのプロジェクトです。